【書評】新訳版『一九八四年』の感想:行き過ぎた監視社会というディストピア

ジョージ・オーウェル著『一九八四年』小説
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この記事は、ブログを始める前に書いた感想の備忘録です。文体が「である調」になってます。

ジョージ・オーウェル著『一九八四年』を読んで考えたこと、思ったことなどの感想をまとめました。私が読んだのは早川書房の新訳のほうです。

社会学の講義で読むように言われた本でしたが、ぜひ、社会学以外の学問をやっている人にも一読してもらいたい名著です。

この本は主に、監視社会と思想統制が行われている世界が描かれています。

ジョージ・オーウェル著『一九八四年』の大まかな設定


『一九八四年』は、大学の講義の課題として購入した本だった。1章だけを読めばよかったので、ゆっくりと読み進めた。

舞台はイギリスで、「党」による支配が蔓延する世界である。

この本の世界では、常にどこかの国(ユーラシアとイースタシア)と戦争をしていることになっており、民衆は戦争に勝利すると喜ぶ。

しかし、主人公のウィンストンは、戦争に勝利しても喜ぶ描写はなかった。
彼は、少し前までは別の国と戦争をしていたと「記憶」していた。

この作品では、「党」が未来、現在、過去をコントロールしている。
ウィンストンが記憶している戦争の相手国の変化も、「党」がなかったことにしている。
そして、それを何の疑いもなく受け入れることがこの世界においての「正気」な人々であり、ウィンストンにはそれができなかった。

また、ウィンストンには、「党」による革命前の記憶が少し残っている。
母と妹と三人で過ごしていた記憶が特に頻繁に作中に出てくる。
しかし、そのような「記憶」があることが、彼が「党」に目をつけられた原因ではないだろうか。

オーウェルが描いたこの世界の『正気』な狂人

オブライエンは、「現実は人間の中だけに存在」していると述べた。

つまり、現実とは、外部に自立して存在しているのではなく、人々の記憶の中にだけ存在している。その人々の記憶は、党の精神を通して見た真実である。党の精神が現実であるのだから、党の精神を通して見た真実は現実である。

オブライエンは高い知性があるから、反論の余地のない論理でウィンストンに迫る。
しかし、ウィンストンがまだ正気を保っているとき(オブライエンからしたら「狂気」だが)に、オブライエンのことを狂人だと考えていた。私もこれに同意する。

知性のある狂人は厄介だ。オブライエンは、論理的に、自らの信じている「党」が如何に正しいかを述べる。拷問と共に理詰めの一種の洗脳をされてしまっては、抗うすべもなくウィンストンのように「正気」になってしまうだろう。

愛することと裏切ること

ウィンストンは、最終的に「正気」になってしまったが、かなりの精神の持ち主だと考える。なぜなら、ギリギリまで(101号室の「ネズミ」の刑まで)ジュリアを裏切らなかったからだ。裏切らなかったというのは、彼女を自分の身代わりにしようとせずに、愛していたということである。

しかし、結局、ウィンストンにとって一番恐ろしいこと(「ネズミ」の刑)によって、ジュリアを裏切ってしまった。

最後の章で、ジュリアと再会しているが、何ら特別な感情を抱いていないのが印象的だった。やはり、一度裏切ってしまうと、今までのように「愛する」ことができなくなるのだろうか。

ジョージ・オーウェル著『一九八四年』新訳版の書評まとめ

この作品は、監視と権力について深く考えさせる作品であった。テレスクリーンも恐ろしいが、一番恐ろしいのは人間だったと思う。特に、オブライエンのような知性の高い狂人には、どんなに隠していても内なる党への反抗心を見抜かれてしまうのではないだろうか。

ウィンストンのように「骨抜き」にされた人間は、最後まで「党」という権力の隷従者になるだろう。彼は二度と、正気には戻らないのだろう。

 

  おおきな栗の木の下で―
  あーなーたーとーわーたーしー
  なーかーよーくー裏切ったー
  おおきな栗の木の下で―

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