疲労の正体

雑記
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思春期以前は周囲の環境に合わせて振る舞いがコロコロ変わっていて、自我が靄の中にあったように思う。当時は自分の気持ちがよくわからなかったので、おそらく疲労も感じていなかった。それが思春期以降、精神的に疲れやすいと感じることが増えた。

思春期に何があったかというと、徹底的に内省をするようになった。私は何を感じていて、過去の何が今のこの状態を作っていて、どこを目指すのか。とは言え、特にやりたいことがなく、今もどこを目指すのかが全く見えていないが。何故内省が始まったのかは謎であるが、周囲の人間の背景などたくさん取り込んで分析して理解して、それが自分を理解する助けになったと思う。思えば、外から吸収して、自己理解を深めるというのが私の中で一貫して起きているようだ。

最近、特に疲れたと感じている。きっかけはおそらく毎日23時前後まで働いた時期が1、2か月ほど続いたことだった。その出来事自体は別に大したことじゃないと思うのだが、おそらく自分の時間が取れなさ過ぎて、精神的な回復が間に合わなかったのだろうと思う。精神的なエネルギーを使い果たしたようなイメージだ。

今、使い果たした精神的なエネルギーはなかなか回復しないのだなと感じている。それはコミュニケーションに如実に表れていて、社会的に好ましいふるまいを実行することが難しい。

Feが使える人なら今の私を見れば一目瞭然だろうと思う。明らかに枯渇。だけども、Feユーザーが少ないのか、なんだか追い詰められるような流れになる。もう何が何でも一人で過ごしたいのに、約束を果たさなければという義務感で這いずって外に出て、私が普段から「こうあるべき」と考えている社会的に好ましいふるまいが実行できずに、挙句の果てに嫌味を言われる。

約束なんて破棄すればよかったのか。よくわからない。約束は果たすべきものではないのか。見るからに追い詰められている人に嫌味を言える神経もよくわからない。自分が相手を見れば何となく感じ取れるだけに、そういう他人の無神経さに傷つく。わざわざ言う必要のないことを言う。心のうちにとどめておけばいいのに。

大抵その当時は適切な反応を返せない自分が悪いと思うし、実際に今もその点においては自分が悪いのだと思っている。一方で、自分に当てはめて考える人とは非常に相性が悪いのだろうとも思う。私ならこう思う、私ならこう感じるという考え方が主であるならば、別の構造の人間の心情を理解することは一瞬たりともない。もちろん、私とて誰かの心の中を理解しているわけではないが、何かを感じ取り多分疲れているのだろうな、一人になりたいのかもしれない、はたまた相談したいのかもしれないなどと仮説を立てて検証する。そうやって微修正しながら正解を探り当てる。

人間関係において他人との構造の違いによる疲弊はたくさんあるので、人との関わりが途轍もなくめんどうくさくなった。どうせ私の何も理解していないならそっとしておいてほしい。

さらにたちが悪いのが、私自身に人と過ごしたいという感情がないことだ。一緒にいて何になるのかという感覚がある。特にやりたいこともなく、やるべきこともなく、相手に付き合うだけの謎の時間になってしまう。そしてそこからエネルギーを得ることはない。それではただ消耗するのみだ。

そのくせ、外から吸収する必要があるので、完全に他者との関わりを排除することは不可能である。そして、コミュニケーションスタイルや心理機能の違いから踏み込み過ぎる人が現れて、疲弊してドアスラムせざるを得ない状況となる。

あと数年は人との関わりを最小限にする必要があるのだろう。最悪、仕事も辞めたほうがいいかもしれない。仕事は対人関係の課題があり過ぎる。

I feel tired everyday.

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