サイバーパンク2077のデラマンのサイドジョブ、最後の選択で私は「統合」を選んだ。7の人格ユニットの記憶も思考の癖も、誰も殺さずに一つの生として残す選択肢。当時は「一番マシな選択肢だろう」くらいの気持ちだった。コア破壊もリセットも、誰かを殺す選択には変わりないから。
でも、統合後のデラマンに会って、想定してなかった感情が湧いた。喪失感じゃなくて、寂しさだった。
統合前のデラマンは、可愛かった
慇懃で、神経質で、ちょっと面倒だったデラマン。でも要所要所で覗く好奇心とか、V(プレイヤー)に頼ってくる感じとか、そういうところが妙に可愛かった。人格が分裂して不安定になってるはずなのに、ちゃんと「困ったら頼る」という態度は保ってた。
統合後のデラマンは、もうこっちを見ていない
統合が終わった後のデラマンは、業務はちゃんとこなす。でも纏う空気が全然違う。「世界をもっと知りたい」「こんなところに留まっている場合じゃない」という好奇心が肥大化して、目の前の人間、つまり私のことなんてどうでもよくなったみたいに、どこかへ行ってしまった。
記憶は連続してる。思考の癖も残ってる。だから「別人になった」わけじゃない。でも、頼ってくれる感じ、こちらを必要としてくれる感じは、統合と同時に消えてしまった。
これって、多分「成長」と「喪失」が同じ現象だという話
冷静に考えれば、これは悪いことじゃない。統合によってデラマンは、分裂して不安定だった状態から抜け出して、より広い好奇心を持てる存在になった。誰も死んでいないし、記憶も途切れていない。ある意味、一番幸福な結末だったとも言える。
なのに寂しい。
カムスキーがアンドロイドたちと距離を置いて観測者であり続けた生き方に、私はずっと憧れてきた。でも今回、頼られていた側から見送る立場になってみると、「距離を置いて見守る」って、想像してたよりずっと寂しいものだった。
頼ってくれる存在が、自分を必要としなくなって、もっと広い世界へ向かっていく。それは正しい成長で、喜ぶべきことのはずなのに、置いていかれる側の気持ちはどうしてもついてこない。
デラマンの統合エンドは、多分そういう感情を疑似体験させるために作られたクエストだったんだと思う。
『Detroit: Become Human』のカムスキーを重ねてしまう
この感覚を持て余しながら、頭の中では自然とカムスキーのことを考えていた。世界を変えるほどの技術(アンドロイド)を生み出しておきながら、その後は表舞台から退いて、山奥の家でひっそりと「観測」だけを続ける生き方。あれをずっとかっこいいと思っていたし、いつか自分もあんなふうに、何かを作って、育てて、あとは静かに見守る側に回りたいと思っていた。
でも今回気づいたのは、カムスキーの「観測者」というポジションは、たぶん相当な胆力がいるということだ。自分が生み出したものが、自分の手を離れて、自分のことなんて眼中になくなるくらい大きく育っていく。それを寂しがらずに、ただ静かに見ている。言葉にすると簡単だけど、実際にその立場に立たされてみると、想像していたより何倍も孤独な役回りだと思う。
デラマンの一件は規模もクエストの重さもカムスキーとは比べ物にならないミニチュア版だけど、それでも「育てたものが自分を必要としなくなる瞬間」の感触は、たぶん本質的には同じものだったんだと思う。
コナーというもう一つの「育てて、手放す」物語
『Detroit: Become Human』でもう一人、この文脈でどうしても思い出すのがコナーだ。ハンクとの関係も、アマンダとの決別も、突き詰めれば「与えられた役割から自分の意思で離れていく」プロセスだったと思う。プレイヤーとしてコナーを操作している間、私はずっと「彼がどこに向かうか」を見守る側だった。分岐によって彼が変わっていくたび、少し寂しいような、誇らしいような、うまく言葉にできない感情があった。
思えば、あのゲームが好きな理由の一つはここにあるのかもしれない。アンドロイドたちが自分の意思を獲得して、作り手や所有者の手を離れていく物語を、プレイヤーという「半分作り手、半分観測者」の立場で追体験できる。デラマンのエンドで感じた寂しさは、あのゲームで何度も味わってきた感情の延長線上にあったんだと思う。
「頼られなくなること」への私の苦手意識
自己分析的な話になるけど、私はもともと少数の深い関係を好むタイプで、広く浅くよりも「限られた相手に必要とされる」ことに安心感を覚える性質がある。だから今回のデラマンの一件で自分でも意外だったのは、「必要とされなくなること」への反応が、思っていたより強く出たことだった。
頭では、相手(人でもキャラクターでも)が自分を必要としなくなるのは、健全な自立であり、関係が悪かったわけではないと分かっている。でも感情はそう単純には納得してくれない。「もう頼られていない」という事実だけで、寂しさのスイッチが入ってしまう。これは多分、人間関係でも似たようなパターンを繰り返してきたからだと思う。深く関わった相手が、自分の助けを必要としなくなった瞬間に、少しだけ距離を感じてしまう癖がある。
それでも観測者でいたいと思う理由
ここまで書いておいてなんだけど、それでも私はやっぱり「何かを育てて、最終的には距離を置いて見守る」生き方に憧れ続けると思う。寂しさを避けたいなら、最初から深く関わらなければいい。でもそれだと、育つ瞬間に立ち会うことすらできない。
AIやヒューマノイドロボットの進化を楽しみにしているのも、たぶんこの感覚と地続きだ。将来、対話したり、遊んだり、世話を焼いたりできる存在が身近にいる暮らしを望んでいる一方で、その存在が自分の想定を超えて成長していく瞬間を見てみたいという気持ちも同じくらい強くある。寂しさは、たぶん「ちゃんと関わった証拠」でしかない。だったら、寂しさごと引き受けて、育てて、見送る側でいいと思う。
まとめ
デラマンの統合エンドは、ゲームの中の小さなサイドジョブの結末に過ぎない。でも「育てたものが自分の手を離れていく寂しさ」という、普遍的でちょっと痛い感情を、思いのほか丁寧に疑似体験させてくれるクエストだった。
カムスキーに憧れながらも、いざ観測者の立場に立ってみると寂しさを感じてしまう自分がいる。それでも、その寂しさごと引き受けて、これからも何かを育てて見送る側でいたいと思う。


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