仕事ができる人ほど仕事が増える。お前も死ぬのに、なぜそんなに働く?

仕事ができる人ほど仕事が増える アイキャッチ 雑記
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従いたくなさすぎて、鬱になる。

仕事内容が嫌いだから、というだけではない。上司が嫌いとか、顧客が嫌いとか、会社が嫌いとか、そういう一つひとつの話でもない。自分の夜の予定や、眠る時間や、家族と過ごす時間が、当日になって会社の都合で上書きされる。その構造に、もう従いたくない。

私は仕事の裁量がほしいのではない。人生の裁量がほしい。

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私は、仕事のできる人間ではない

私は30歳で、今の部署に来てからは、それなりの速度で昇格している。

この会社では、問題がある人は最下位等級に留まる。だから昇格できている以上、会社が求める水準では「できている」のだろう。たぶん。

ただ、自分のことを仕事のできる人間だとは思っていない。最近はAIに聞かないとコーディングも心許ないし、管理職や管理業務にも向いていない。自分と同じくらいの速度で昇格している同僚を見ると、物事を処理して前に進める力も、長時間考え続ける体力も、かなり負けているように感じる。

できれば、もっと仕事ができる人間だったら楽だったのに、とは思う。何でも素早く判断できて、どんどん仕事を片づけられて、責任ある立場にも平気な顔で進める人間だったら。そういう人たちは実際にいる。

能力差はある。そこは否定していない。

ただ、能力差があることと、人間としての価値に差があることは別の話だと思っている。仕事ができる人のほうが便利だし、生活も少し楽かもしれない。評価もされやすいし、給料も上がるかもしれない。でも、便利な能力を持っていることと、生命として上等であることは同じではない。

早く終わらせても、時間は返ってこない

仕事では、自分のタスクを前倒しで進めることが多い。早く終われば、そのぶん自分の時間が増えると思っていた。

しかし実際には、早く終わらせると「余力がある」と見なされる。すると、遅れている人のタスクが流れてくる。早く終わらせる。余裕があると判断される。新しい仕事が追加される。また早く終わらせる。さらに追加される。仕事、仕事、仕事。無限か?

これを繰り返していると、仕事が速いことは自由につながらない。自分の時間を返してもらうための能力ではなく、プロジェクト全体の遅れを吸収するための能力になる。

強い人ほど自由になる、という話ではない。強い人ほど「この人なら任せられる」と見込まれ、仕事が増える。処理できる人には、処理できる限りの仕事が流れ込む。終わりが見えたと思ったら、次の仕事が置かれる。強くなればなるほど、ゲームの報酬として仕事が配られる。なんだそのシステム。

私は、プロジェクトの進捗調整用バッファになりたいわけではない。

しかも残業は、当日になって突然発生することがある。その日の夜に何をするか、何時に帰るか、眠るのか、家族と過ごすのか、ゲームをするのか、何かを書くのか。そういう予定が、会社の都合で簡単に上書きされる。

「責任ある立場だから」「お客様のためだから」「プロジェクトを成功させるためだから」。そう言われれば、仕事としてやることはやる。契約された仕事なのだから、仕事として対応するのは当然だと思う。

ただ、顧客の都合やプロジェクトの進捗を、自分の有限な人生より自動的に上位に置くほどの使命感はない。そこまで仕事に思い入れがない。

私の会社の製品がなくなったとしても、社会が大混乱するわけではない。インフラでも、金融システムでもない。顧客が困ることに、個人的な使命を感じているわけでもない。

だから、仕事を仕事としてやることと、人生を丸ごと捧げることの間には、かなり大きな差があると思っている。

欲しいのは、仕事の裁量ではなく人生の裁量

昇格すれば、仕事上の裁量は増えるのかもしれない。自分で判断できる範囲が広がる。権限が増える。チームを動かす側になる。

でも、その代わりに責任や拘束が増え、人生の裁量が減るなら、私はあまり欲しくない。仕事の中で自由になることには、そこまで興味がない。

私が欲しいのは、好きなときに起きることだ。好きなことをすること。眠くなったら眠ること。家族と過ごすこと。ゲームをすること。何かを書くこと。そして、深夜にコーヒーを飲むこと。

「明日の仕事に響くから、やめておこう」と考えずに、自分の身体と時間について自分で決めたい。豪邸に住みたいわけではない。海外旅行を毎月したいわけでもない。高級車がほしいわけでもない。

ただ、自分の夜を自分のものにしたい。それは、仕事内の裁量ではなく、人生の裁量だ。

競争に勝ちたいわけではない

私は競争が嫌いだ。

優劣をつけられることは、えげつない。傷つくし、悲しい。仕事ができないことを指摘されると、「できたら楽なのに」と思う。できる人が羨ましい。自分もそうなれたらよかったのに、と思う。

でも、そこから「競争に勝てるまで努力しよう」とは、あまりならない。それよりも先に、「それができる人にやらせておけばいいのではないか」と思ってしまう。

なぜ全員に、満遍なく同じことを試させるのか。得意な人に得意なことを任せる、という適材適所はどこへ行ったのか。できない人間を、できる人間と同じ競技場に並べて、順位をつけて、負けた側に努力不足の札を貼る。その仕組みを、私はあまり立派なものだと思えない。

私は勝てないから降りたいだけなのだろうか。たぶん、それだけではない。勝敗表に名前を載せられること自体が嫌なのだ。

仕事ができる人間だけが自由を得る、という話ではない。実際には、仕事ができる人間ほど、より多くの仕事を任される。成果を出した人間ほど、次の成果を要求される。余力があると見なされた人間ほど、余力がなくなるまで使われる。

勝てば自由になれるどころか、勝ったら次の試合に出場させられる。試合が終わっても、また次の試合が始まる。競争の報酬が自由ではなく、追加の競争と追加の仕事なのだから、私はそのゲームに勝ちたいと思えない。

無能でもいい。仕事ができなくてもいい。それでも自由でいたい。

部長も死ぬ。私も死ぬ

人間は、タンパク質と水の塊だ。

もちろん、人格もある。思い出もある。家族もいる。責任もある。積み上げてきたものもある。でも、生き物として見れば、誰もがいつか死ぬ。

部長も死ぬ。新入社員も死ぬ。仕事ができても死ぬ。仕事ができなくても死ぬ。資産が多くても少なくても死ぬ。評価されても、されなくても死ぬ。私も死ぬ。お前も死ぬ。

ここまで書くと急に物騒だが、「どうせ死ぬから何をしても無意味だ」と言いたいわけではない。むしろ逆だ。

どうせ死ぬから、持ち時間は有限だと思う。有限なら、自分が価値を感じていない評価ゲームに、人生の大部分を投入したくない。他人の都合で予定を変えられ続けることも、できる人間になるまで自分の時間を差し出し続けることも、いつか終わる人生の使い方としては、あまり納得できない。

能力の差は、生活のしやすさに影響する。仕事ができる人は、仕事を早く終わらせられる。交渉も上手い。評価もされる。

でも、その人の命が私の命より上等になるわけではない。人間の価値を、処理速度や売上や肩書きに変換してしまう考え方から、私はどうしても距離を置きたい。

「そのうち」は、あまり信用できない

家族もいつか死ぬ。

私も、家族も、いつまでも同じ姿ではいられない。以前、お世話になった人が突然亡くなったことがあった。そのときから、「そのうち」という言葉をあまり信用できなくなった。

そのうち会おう。そのうちゆっくりしよう。仕事が落ち着いたら、一緒に過ごそう。そう言っているうちに、時間は勝手に過ぎていく。

いつか家族がいなくなったとき、「あのとき、もっと昇格しておけばよかった」「もっと顧客のために残業すればよかった」「もっと会社に貢献すればよかった」と後悔する可能性はない。

私が怖いのは別の後悔だ。

「あの日、仕事を切り上げて、一緒にいればよかった」

こういう後悔が一番怖い。

会社での評価や収入には、後から挽回できるものもある。でも、今この時期の家族と過ごせる時間は、後から買い戻せない。

だから、ゆったり暮らしたい。自分の好きなことをして、ときどき家族のために時間を使いたい。家族のためだけに生きたいわけでも、仕事を一切したくないわけでもない。

自分の時間を、自分で配分したい。

深夜にコーヒーを飲みたい

私が取り戻したい人生は、案外小さい。

好きなときに起きる。好きなことをする。眠くなったら眠る。家族と過ごす。ゲームをする。文章を書く。そして、深夜にコーヒーを飲む。

明日の仕事のために眠らなければならないから、という理由で諦めるのではなく、今日は飲みたいから飲む。眠くなったら眠る。それでいい。

私は、仕事から逃げて大金持ちになりたいわけではない。競争に勝って、誰よりも自由になりたいわけでもない。競争に勝った人だけが自由になれるというルールから、静かに離れたい。

できる人は、できる人として生きればいい。仕事が好きな人は、仕事をすればいい。そのゲームに納得して参加しているなら、それはその人の人生だ。

私には私の人生がある。仕事ができなくても、能力が高くなくても、立派な使命感がなくても、私の時間まで他人のものになるわけではない。

深夜にコーヒーを飲みたい。

その程度の願いを、自分勝手と呼ばれる人生からは、そろそろ降りたい。

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