誰も排除していないのに、集団は閉じていく——身内ノリと同化圧力の話

同調圧力 思考
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昔、とあるMastodonインスタンスにいた。大きなSNSに障害が起きるたび、外部から人が流れてきた。新しく来た人たちは、明文化されたルールを破ったわけではない。それでも、既存の住民との間には少しずつ険悪な空気が生まれていった。

当時は、単なる相性の悪さや文化の違いだと思っていた。けれど後から考えると、そこには「ルールを守ること」と「その集団の文化に同化すること」が、別の条件として存在していたように思う。

これはMastodonだけの話ではない。任意参加のオンラインコミュニティ、趣味の集まり、職場のチームなど、どこにでも起こりうる。誰かが明確に排除しなくても、人は集団の外へ押し出される。そして、その仕組みは集団を快適にする一方で、長期的には集団そのものを衰退させることがある。

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ルールを守れば、まずは十分ではないか

任意参加型のコミュニティには、普通は明文化された参加条件がある。禁止されている行為をしない。場を荒らさない。他人の参加を妨げない。そうした条件を満たしているなら、参加者としては基本的に十分だと思う。

私はこれを、かなり単純に「100点」と考えている。もちろん、誰かに迷惑をかけないことや、場を悪くしないことは必要だ。しかし、それを満たした人に対して、さらに古参の文化を理解し、内輪ネタを使いこなし、昔からいる人たちのノリに合わせることまで暗黙に求める必要はない。

その追加条件は、規約には書かれていない。けれど満たせない人は「馴染めない人」「空気が読めない人」として扱われる。制度上は参加できるのに、文化上はいつまでも仮参加のままになる。

ここで起きているのは、単なるマナーの要請ではない。明文化されたルールの外側に、もう一つの入場審査がある。私はそれを、同化圧力と呼びたい。

排除を意図する人と、無自覚に閉じる人

ただし、集団の排他性を考えるとき、全員を同じ悪意の持ち主として扱うのは正確ではない。

新しい人を意図的に入れたくない人はいる。古参だけの空気を守るために、わざと分かりにくい反応をしたり、新参者が参加しにくい話題を選び続けたりする。これは、かなり分かりやすい意味でバリアを作る行為だ。

一方で、誰かを排除するつもりなどなく、ただ仲のよい人たちといつも通り話しているだけの人もいる。積み重なった内輪ネタを使い、共有された過去を前提にし、似た感覚の人にだけ反応する。その結果として新しい人が入れなくなっていても、本人には排除の実感がない。

この二つは分けて考えたほうがいい。意図的な排除には責任を問う必要がある。しかし、無自覚な排他性は、悪人を見つけるだけでは解消しにくい。むしろ「誰も排除していない」という自己認識によって、問題が見えなくなる。

鈍感な人や、既存の文化にうまく迎合できる人だけが残ると、集団の側はこう思うかもしれない。「実際に馴染んでいる人はいる。だから新規を拒んではいない」。

けれど、馴染めた人がいることは、誰にでも開かれていることの証明にはならない。適応できた人だけが見えている可能性がある。

快適さが、新規参入の壁になる

集団の文化は、自然に生まれる。古参同士に共有された歴史ができることも、内輪ネタが生まれることも、それ自体は悪くない。全員が常に初対面のように振る舞わなければならない場所は、かえって不自然だ。

問題は、その自然に生まれた文化が、参加者全員に同じように開かれているかどうかだと思う。

古参同士で通じる文脈が増えるほど、内部の会話は快適になる。説明しなくても伝わるし、反応も予測できる。集団は「落ち着く場所」になっていく。

しかし、その快適さは新規参加者にとっては、説明のない前提の束でもある。どこまで遡れば会話を理解できるのか分からない。何に反応すると歓迎され、何を言うと距離を置かれるのかも分からない。ルールを守っていても、文化の読み取りに失敗すれば、居場所がない。

集団の快適さと、参加のしやすさは、同じ方向に進むとは限らない。内部の人にとって快適な状態が、外から入る人にとっては高い壁になっていることがある。

新陳代謝できない集団は、静かに老いる

人は永遠には残らない。飽きることもあるし、生活が変わることもある。別のサービスへ移ることもある。どれだけ愛着のある集団でも、古参が同じ人数、同じ熱量で居続けることはない。

ここで新しい人が入ってきても、ルールのほかに文化への適応まで求められるなら、定着する人は限られる。残るのは、その文化と最初から相性がよかった人か、そこへ自分を合わせられた人に偏っていく。

流れを並べると、こうなる。

  1. 内部の共有文脈が増え、集団が快適になる
  2. 新規参加者には、その文脈が見えない壁になる
  3. 適応できる人だけが定着する
  4. 集団の同質性が高まる
  5. さらに新しい人が入りにくくなる
  6. 古参の自然減を補充できなくなる
  7. 集団が少しずつ縮小し、過去を共有する人だけの場所になる

内部にいる人たちは、むしろ「昔より平和になった」と感じるかもしれない。変な人が減り、会話が通じやすくなり、面倒な衝突も少なくなるからだ。

その評価は、短期的には間違っていない。排他的な集団は、短期的には居心地がよい。だからこそ、その状態が自分たちの補充経路を細くしていることに気づきにくい。

集団が死ぬとき、いつも大きな事件が起きるとは限らない。新しい人が少しずつ定着しなくなり、残った人たちが少しずつ減っていく。その静かな過程を、私は「集団が老いる」と表現したい。

国家の移民問題とは、同じモデルでは考えない

この話は、移民をめぐる議論に似た形で語ることもできる。しかし、国家の移民問題と、任意参加型コミュニティの新規参加者の問題は、同じモデルで説明しないほうがいい。

国家には、国民としてのアイデンティティ、法制度、主権、領土、税や社会保障、労働市場、政治参加、歴史的な責任など、任意参加の集団にはない変数がある。国家は単なる「好きな人が集まる場所」ではなく、制度的な強制力を持つ共同体でもある。

だから、ここで扱っているのは移民政策の答えではない。国家性をいったん取り除いた、非国家的な集団における同化圧力の観察である。

参加条件を、文化への服従にしないために

集団に文化があることは避けられない。古参が共有する記憶や、自然に生まれた言葉遣いを消す必要もない。

ただ、そこに参加するための条件として、文化への迎合まで要求するのかは別の問題だ。ルールを守ることと、内輪の価値観に同意すること。場を荒らさないことと、古参の笑いに同じように反応すること。それらは、本来は別々に扱える。

誰も排除していないつもりでも、排除は成立する。誰かが露骨に門を閉めなくても、門の前に立つ人へ「こちらの作法を覚えてから来てください」と無言で求め続ければいい。

集団を長く続けたいなら、文化を持たないことではなく、文化を参加資格にしないことが必要なのだと思う。少しの不安定さを受け入れられる集団のほうが、たぶん長く生き残る。

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