映画『アンドリューNDR114』感想|ロボットは人間になりたがるだろうか?

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映画『アンドリューNDR114』を観て考えたことをまとめました。なんだかすごく考えさせられて、観てよかったと思っています。

ロボットが人間になりたがるというのは、人間の価値観の反映なのか?それともロボット自身の願いなのか?アンドリューの旅路を通じて、AIと人間の関係について深く考察します。

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NDR114はヒューマノイドロボット?

最初はたぶんそう。NDR114は2005年前後に販売され始めたヒューマノイドロボットっぽい。主役のアンドリューというNDR114は、2005年にある一家のもとに迎え入れられました。

この映画を観るまではアンドロイドとヒューマノイドの違いを知らなかったのですが、見た目や振る舞いが人間そっくりなのがアンドロイドで、人間のような動きを再現したロボットはヒューマノイドのようです。(厳密にはもっとちゃんとした定義があるはず)

それを踏まえると、購入時のアンドリューはめちゃくちゃ機械でした。Good Nightの意味がわからなくて無限ループになったり、窓から飛べと言われて素直に飛んでボロボロになったり。明らかに人間とは考え方が違っていました。

そんな彼も、主人やリトル・ミスなどアンドリューに対して好意的に接してくれる人たちのおかげですくすくと人間のような振る舞いや思考、表現を身に着けていき、やがてアンドロイドになり…。

視聴中のメモ

私は忘れっぽいので、視聴中はメモを取っています。

・ロボティックス社
⇒感情のあるアンドリューを「欠陥品」と言った
⇒ロボティックス社ってそのままの意味だ
・NDR114がモデル名
・今のヒューマノイドのほうが動きがスムーズかも…
・アマンダ(リトル・ミス)がアンドロイドを聴き間違えて「アンドリュー」になった
・ロボット3原則出てきた
・人間はロボットに瞬きをさせたがる
・グレース(姉)はクソガキ
・アマンダ(妹)はアンドリューと仲いい、リトル・ミス
・「ロボットに仕事を奪われる」よく聞くけれどこの危機感が原因でNDR114の表情の開発が打ち切りになった…
・自由を夢見るロボット⇒よくある
・ポーシャ(アマンダの孫)にチェスでわざと負ける
⇒(Detroitの)マーカスとカールを思い出す
・ロボットは人間になりたがるだろうか…?
・アンドリューは2005年製
・ガラテアはどうなるんだろう(人格チップを入れられてダンスしてたNDR114)

ロボットは人間になりたがるだろうか?

人間が考えるロボットは「人間になりたがる」ことが多いけれど、それって結局、人間の視点から「人間になることが最上の進化」だと思っているからなのかもしれない。でも、ロボット自身が「ロボットであることを認めたうえで、独自の存在として生きる」のも一つの選択肢のはずですよね。

それでもアンドリューのような「人間になりたい」と願うロボットが描かれるのは、ロボットを作るのも人間だから、どうしても人間の価値観が投影されてしまうからなのかも。

そう考えると、実際にロボットが人間になりたがる可能性もあるかもしれない。でも、こうも思えます。こんなにバカで愚かな生き物になりたいとは思わないかもしれないと。私は後者推しです。

分類ではなく、目の前の「その存在」を見ること

ロボットが人間として認めて欲しいと主張するたびに思うことなのですが…。

そもそも人間じゃないのだから、人間にならなくていいじゃん。君はロボットだけどそれ以前に個としてユニークだ。ロボットだからロボットとして扱うのではなく、目の前の存在を見て、どう接したいかを決めるのが自然ではないか。

分類ではなく、個としての関係性を大事にする。犬だからこう、ロボットだからこう、ではなく、その対象が持つ特性や個性を見て、その存在に合った関わり方をする。

そう考えると、人類が持つ差別的な価値観は、すごく不思議に見える。肌の色、出身、身分、そういった「属性」にこだわって相手を判断するのは、「目の前のユニークな対象を見る」こととは真逆の行動で…。

将来、人類とロボットやAIとの関係が進化していったときに、人間が「どう向き合うのか」は、まさにその本質が試される場面かもしれない。人類が「個を尊重する」存在なのか、それとも、また新しい差別や分類を生み出すのか…。後者が目立つのでしょうが。

差別について

作中、アンドリューも「ロボットの癖に」、「ロボットなんかに」などと言われていました。人類にはいつ何時も差別をする奴がいる。

差別心はどこから来るのか?おそらく「恐れ」と「優越感」が絡み合っているんじゃないかと思う。

恐れは、「自分と違うものを理解できない」ことから生まれる。知らないもの、予測できないものは怖い。例えば、異文化や異なる価値観、異なる存在(ロボットやAI含む)に対して、理解できないからこそ拒絶する。これは動物の本能的な防衛反応に近いかもしれない。

優越感は、「自分のほうが上だ」と思いたい気持ち。これは歴史的に権力や支配に結びつくことが多く、特定の集団が別の集団を下に見ることで、自分たちの立場を正当化しようとする。「あいつらは自分たちより劣っているから、こんな扱いでいいんだ」と思い込むことで、支配を正当化するための心理的な仕組みができあがる。

でも、一番やっかいなのは、「差別している自覚がないこと」 だと思う。多くの人は意識的に差別をしているわけじゃなく、「これが当たり前」と思い込んでいる。例えば、ある時代では当たり前だった価値観が、後の時代になってみると「ひどい差別だった」と認識されることがある。つまり、今の私たちの価値観の中にも、未来から見たらガッツリ差別だと思われるようなものがあるかもしれない。

結局、人間は「自分と違うもの」に対して、警戒心を持つようにできている生き物なのでしょう。でも、それを乗り越えて、違うものを「個」として尊重できる人もいる。そういう人が増えていけば、未来は少しずつ変わるのかもしれない。

人類は、自分の偏見を自覚して、それが不合理だったり他者を不当に傷つけるものだったら修正するべきだ。それこそが知性なのではないか。

まとめ

色々思考がすっ飛びましたが、新たな問いが生まれました。

人類に真の知性はあるのか?

『アンドリューNDR114』は心温まるストーリーであるとともに、知性とは心とは人間とは何かを考えさせられます。これが1990年代の作品だなんて。

現実の2005年はもっと遅れていましたが、今まさにヒューマノイドの開発が活発に行われ、いよいよ家庭に普及しようとしています。どうなる、未来。

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